About me

─ わたしについて ─

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アンビリカル

コードとは

What’s “umbilical cord”

屋号の「umbilicalcord

(アンビリカルコード)」とは、
英語で「臍の緒」という意味です。

十月十日、母子を繋ぐ臍の緒は、

赤ちゃんが成長する上で必要不可欠な
栄養を供給し、酸素と二酸化炭素の

循環を行っています。

そして、産まれた後も、

多くの人がずっと大切に

保管しているものだと思います。

私自身もそんな臍の緒のように、

「母子に沢山の元気を与え、

寄り添うことで安心を与えたい。」
「家族にとって一生の

宝物になるような写真を残したい。」

という想いを込め、この屋号にしました。

プロフィール

助産師フォトグラファー
むろた めい

こんな人です

生まれも育ちも福岡県筑紫野市。現在は筑紫野市にて、明るくスーパーポジティブな夫と、お調子者で面白い娘との3人暮らし。私の性格を一言で言うと「真面目」笑。小学校の参観日はずっと姿勢を伸ばして手は後ろで組んでるような子どもでした。

生い立ち

中学高校は吹奏楽部に所属し、テナーサックスを演奏していました。特に高校は部活命、The青春な高校時代を送りました。小さい頃から歌や踊りが大好きで、小学生の時の夢は「歌手」「舞台女優」「声優」でした。中学生頃から現実を見るようになり、赤ちゃんや子どもが大好きだったので、「保育士」や「養護教諭」について考えるようになりました。高校時代はなりたい職業に迷走し始め、「管理栄養士」や「養護教諭」、「看護師」になれる理系の生物クラスへ。

助産師を目指すきっかけ

高校2年生の時の元旦の夜、人生を変える夢を見ます。なんと、私の頭の上をたくさんの赤ちゃんたちがぐるぐる回っていたのです!!ここで私は「あ、私は助産師にならなきゃいけないんだ。」という、謎の使命感に駆られます。もともと母が自然派であったことから、むやみにお薬を使うことに抵抗がありました。助産師として女性の本来の力を信じて、自然なお産を手助けすること。大好きな赤ちゃんに関われること。それは私にとってぴったりの職業だと思ったのです。

助産師になるまで

そこから猛勉強がスタートします。電車でも、お風呂でも、食事中でも、寝る時間以外はずっと参考書を手に持っていました。ただ、寝ることは大好きなので、毎日6時間睡眠は必須。効率を徹底的に追求。助産学生時代は過酷な24時間待機実習の時も、「一番寝てるのに、よく記録終わるね。」と褒められて(?)いました。看護助産学生時代は、バイトが生きがい人間で、ドームの売り子、小学校の学童保育所の先生、神社の巫女の三つを掛け持ちしていました。

助産師としての活動

助産学生として、初めてお産の介助につかせていただいた時。緊張、感動、生命の尊さ、ママと赤ちゃんへの敬意、たくさんの感情が込み上げてきました。こんな素敵な瞬間に、他人の私が関われるなんて。本当に素敵なお仕事だと思いました。そこから、学生時代、総合病院勤務時代にトータル60件ほどのお産に関わらせていただき、いろんなお産のあり方を学びました。無事に生まれてきてくれることが当たり前ではないことも、痛いほどよくわかりました。だからこそ、今、ここにある命は本当に尊くて、大切で、その命を守りぬくママたちの力になりたい、家族に寄り添いたいと思うようになりました。病院では退院後1ヶ月までしか母子と関わることができません。そのため、ママと赤ちゃんの退院後の生活について知りたい気持ちから、保健所の助産師を志望しました。

志望者5人の中から見事内定をいただき、保健所勤務初日。急なめまいと吐き気に襲われて、トイレに駆け込みました。そう、まさかの初日に妊娠発覚。

妊娠と出産

辞退も念頭に置いて上司に相談。「せっかく室田さんを選んだから、出来る限りで大丈夫、頑張ってみて。」その言葉のお陰で、仏のような上司に囲まれ、妊娠36週にて半年間の任務を終えました。ちなみにつわりは妊娠5週〜20週ほどまで続き、朝昼は何も食べれず胆汁を吐くと言う状況で、体重が7kg落ちました!(二重顎は治らず。)そして妊娠7ヶ月の時に逆子が発覚。ちょうどカメラの勉強をしている時だったので、無理しすぎた自分を責めました。妊娠37週。逆子の外回転術で有名なおじいちゃん先生の元へ。何回トライしても回らず。最後にトライするためにエコーを見てみると両手両足を大きく広げて踏ん張っていました。(笑)先生からも「こんな子初めて見たよ。」と言われるくらい頑固な子でした。(笑)そこで諦めがつきました。

でも、助産院を受診していた私からすると、あの心地よい空間での妊婦健診、お産がもうできないと思うと悔しくて、悲しくて、しばらく涙が止まりませんでした。帝王切開当日までに、たくさんの人に相談して、たくさんの人に励ましてもらえて、当日はなんとか笑顔で手術に挑むことができました。「赤ちゃんは自分とママが一番安全な方法を選んで産まれてくるよ。」その言葉に心から救われました。産まれた瞬間のあのなんとも言えない、不思議で幸せな感覚は、人生ではじめて味わった感覚で、自然と涙が込み上げてきました。

カメラマンを目指すきっかけ

娘と少しでも長く一緒にいたい、そんな思いからカメラマンに転職し、産後3ヶ月から傷の痛みと闘いつつカメラマン活動を開始。娘と同い年ベビーちゃんの撮影を沢山した一年でした。ちなみに娘は4月生まれ。0歳にして、3月生まれの同い年ベビーちゃんの自宅出産に立ち会うという偉業を成し遂げました。カメラマン活動を開始してから半年が経ち、ずっと夢だったニューボーンフォトグラファーになることを決意。沖縄の助産師umareのお二人から1年間をかけてニューボーンフォトを学びました。私が看護学生の時から憧れていたお二人から学ぶことができて、とても光栄でした。2022年4月。2年間仕事をしながらも自宅保育をしてきた娘を認可外の保育園に通わせることにしました。自宅保育をするママたちの気持ちを知りたい!そんな思いで2年一緒にいましたが、自分では満足できるくらいまで一緒にいれたなと思っています。

カメラマンとしての想い

そこから本格的に助産師カメラマンとしての活動を開始。個人撮影の他に、季節の撮影会やカフェでの月1の産前産後のママ会、色々な職種の方とのコラボ企画、起業家女性向けのプロフィール撮影会など、私のやりたいことがどんどん叶っていきました。そして、今ある当たり前ではない大切な瞬間を写真に残していく。大好きな赤ちゃんたちに関わっていく。ママたちの心の支えになる。そんなカメラマンであり続けたいと心から思っています。撮影するお子さんたちには、無事に生まれてきてくれてありがとう。成長してくれて、ありがとう。という気持ちで接しています。また、撮影をご依頼をいただけることは当たり前の事ではなく、皆様とのご縁を本当にありがたく思い、感謝の気持ちを持って活動をしています。いつまでカメラマンをするのか、助産師として臨床で働くことはあるのか、それはまだわかりません。でも、私を求めてくれるお客様がいる限り、全力で家族の人生に寄り添いたいと思っています。


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